2017/09/05

電機機関車(桃太郎)

2017年9月5日(火)曇り
午前中湯が原の金融機関に行くその帰りに湯ガ原駅に電機機関車「桃太郎」が通過した。


電気機関車桃太郎

EF210形電機機関車「桃太郎」とは
1996年に登場した直流電化区間用の貨物牽引標準機。国鉄時代から活躍するEF65形とEF66形は老朽化により廃車時期が徐々に迫ってきた。また、1時間定格出力6,000 kWを誇るEF200形電気機関車がその能力(1,600tを想定)を活かせる周辺環境を得られず、能力を持て余す結果となったため、1,300tコンテナ貨物列車に充当する目的で開発された。

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2017/08/25

2017年8月25日(金)晴れ
昨夜行われた、熱海海上花火大会、中銀咲見ライフケア屋上から見学、
二尺玉と大空中ナイヤガラ


2017/08/15

終戦記念日

2017年8月15日(火)
戦後72年を数える,終戦記念日、戦争の愚かさと平和の尊さを .二度と悲惨な戦争を起さない為にも憲法9条を守ろう!
私の戦災体験記
<東京大空襲>
  太平洋戦争で日本軍は開戦当初は破竹の勢いで東南アジアの国々を占領していきましたが、半年もたたないうちに米軍の反撃がはじまり、それ以後は敗北と撤退を続け、米軍のB29爆撃機による日本本土への空爆が本格化しました。1945年(昭和20年)3月10日には東京の下町地区に米軍のB29爆撃機325機が大挙来襲し焼夷弾による大規模な空襲を行い、わずか2時間余りの攻撃で一夜にして10万人ともいわれる(大半が非戦闘員)都民の尊い命が奪われました、それ以来終戦まで100回を超える空襲が続きました、

<空襲で両親を失う>
  私達家族も昭和20年6月10日、東京の板橋区で米軍のB29爆撃機による空襲に遭いました、その日は朝からどんよりと曇っており、梅雨時とはいえ蒸し暑い日でした、遠くで空襲警報のサイレンが鳴り、ラジオがガーガーと敵機来襲を告げていましたが、毎度のことなので、いささかマンネリ化して、そんなに注意を払っていないようでした、まだ5歳の子供心に、今日は、死ぬのだろう、明日は死ぬのかなと思っていた日々が続いていました。

  父は久しぶりに仕事が休みで、親子3人で粗末な朝食をすませた直後、飛行機の爆音が聞こえてきました、父が自慢しているドイツ製の古ぼけた愛用の双眼鏡で(兄の話では父は内務省の役人でドイツに行きドイツのゲシュタポの幹部から貰ったと自慢していた)窓越しに空を見ていました、突然「B29だ、早く防空壕に入れ!」と怒鳴りました、でも母は「父さん、町内の空襲警報のサイレンが鳴っていないから大丈夫よ」と相手にしません,父は空襲警報のサイレンは壊れて鳴らないんだ、私は父に言われるまま、防空壕とは名ばかりで、庭に穴を掘って板で入り口を覆ってだけの簡単なもの、

  この時期の防空壕の内部はジメジメして、ナメクジなどの虫類が這い回っている状態でした、防空壕に入りかけた途端、突然ギューンという金属音がしたとたんに大爆発が起こり、目の前が真っ暗になって意識がなくなりました、何時間くらい経過したのでしょうか、ふと気がつき、爆風のため崩れかかった防空壕から這いでると防空壕の入り口で父が頭から血を流し虫の息、B29爆撃機による焼夷弾攻撃で大火災発生母が私をかばい焼死今生きているのが奇跡的である

<廃墟となった町>
  町全体が一瞬にして廃墟と化していました、町は重症者の苦痛の悲鳴や泣き声やうめき声でごった返していました「K子、K子、死んじゃだめ」という声のする方を見ると、家族に付き添われた知り合いの女の子が全身血だらけになって横たわっていました、僕の父を助けてくださいなど言える状態ではなかった、

  私も背中から血が出て歩くたびに、背中に激痛がして思う様歩くことが出来ません痛をこらえながら助けを求めて歩いていると、赤ちゃんをおぶった近所の豆腐やの伯母さんが全身真っ黒になり「坊や水を持ってきておくれ・・・」と何回も何回も訴え続けています、炎にあぶられ妊婦のおなかが炸裂し胎児が露出してしまった人、口からどす黒い血を吐きながら苦しんでる人、首や両足がなくなった人、内臓が飛び出て苦しんでいる人、自分の子供の首を抱えて半狂乱になっている人、まるで地獄図の様、まだ5歳だった私には どうする事もできません、あまりのショクで、泣き叫ぶこともできないほど体が硬直し、背中の痛みと「親子断末魔の声」とで、思わず失禁してしまったことが, 今でも深く脳裏から離れません、


<爆弾の破片摘出手術>
 救助隊が負傷者を救出中、突然ゴーオという鋭い音と同時にバリバリという鋭い音がし、グラマン戦闘機が急降下してきて動いている人達を一斉射撃をあびせて来ました、何人かの救助隊員が数メートルも吹き飛ばされ即死状態、新たな救助隊員によって病院に連れられていき、野戦病院で地獄にきたかと思うようでした、私の背中に爆弾の破片が突き刺さっているので、破片を取るため手術をするとのこと、医者が「坊主、麻酔の薬が無いから痛いの我慢するのだぞ」といい、看護婦に体を押さえられその瞬間ものすごい激痛を感じ気を失いました、今でもその傷跡は、残っておりその傷跡を見るたびに あの悲惨な光景が思いだしてくる、家庭が一瞬にして破壊 親戚の家に行っても邪魔者扱い(お前も親と一緒に死んだらよかったのに・・・)行くあても無く戦争孤児となり5歳で物乞い生活、同じ境遇の戦争孤児と橋の下やら鉄道のガード下で生活、商店の食料品を盗んでは警察に(警察も黙認していた)補導されながら生活していた ,


<風化しない様に>
  あれから72年、あの惨事の痕跡は町からすっかり消え、わずかにお地動様だけが風化しかかった戦争の痛みを思い起こさせる、当時の記録によれば昭和20年6月10日の罹災者は、死者約500名とあります板橋区内で最高の死者を出した空襲でした、

2017/07/24

日本丸

2017年7月23日(日)曇り
商船三井の大型客船「にっぽん丸」(2万2472トン)が23日、熱海港(ナナハン岸壁)に寄港した。 「にっぽん丸」は、総トン数22,472トン航海速力18ノット 全長166メートル、幅24メートル、地上8階地下1階、202室で最大定員524人。

日本丸
2017/07/15

箱根椿ライン

2017年7月14日(晴れ)
箱根大観山から奥湯本までの椿ラインを走行する